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 人名索引 なーの


人名索引総目次
ナゲルナッシュナザロフナポレオン
ニーウェンティイトニーヴンニコマコス,ゲラサのニコメデス
ニモニュートンH.A.ニュートン
ニューボーンニューマンニリー
ヌグ
ネイピアネヴィルE.ネーターネルセット
ノイゲバウワーC.ノイマンフォン・ノイマンネリー・ノイマン
ノーベルノタリ



 
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ナゲル(Trygve Nagell, 1895.7.13-1988.1.24).
 ノルウェー,オスロに生まれ,スウェーデンのウプサラに死す.
 オスロ大学卒業(1920),博士(1926). オスロ大学の教員となり,助教授(1930-31).スウェーデンのウプサラ大学教授(1931-1962).
 整数論,抽象代数.特に,不定方程式,代数的数,環論に業績.
 ナゲル・ルッツの定理(楕円曲線のディオファントス幾何に関するもの),ラマヌジャン・ナゲル方程式(2^n-7=x^2で,nとxが自然数である解はn=3,4,5,7,15の時だけ存在,(n,x)=(3,1),(4,3),(5,5),(7,11),(15,181) ;1948年にナゲルが証明).
文献
  1. 『数論入門』(Introduction to Number Theory, 第2版,Chelsea, New York, 1964)
 [珠訳序, 文] トップ

ナザロフ(Alexander Ilyich Nazarov)
 サンクトペテルスブルク大学からN.N.ウラルツェヴァの指導で,「放物方程式の解に対する最大ノルムとヘルダーノルムの評価(Estimates of Maximum and H\"older Norms for Solutions of Parabolic Equations)」により学位(1988).
 サンクトペテルスブルク大学数学力学部教授.偏微分方程式,  『非線形偏微分方程式と関連する話題(Nonlinear Partial Differential Equations and Related Topics)』(2010,ウラルツェヴァと共著).  [フ文] トップ

ナッシュ,ジョン・フォーブス,ジュニア(John Forbes Nash, Jr, 1928.6.13-.)
 アメリカ,コウェストバージニア州ブルーフィールドの生まれ.
 17歳の時、カーネギー工科大学(現在カーネギーメロン大学)にジョージ・ウェスティングハウス奨学生として入学,初め化学を学ぶ.数学に転向し,また国際経済学を学ぶ.同大学で修士を出て(1948),プリンストンに移り,タッカーの指導で,論文『非協力ゲーム(Non-cooperative Games)』でPh.D.取得(1950).MITのムーア講師(1951).いろいろあったが,現在はプリンストン大学上級数学研究員.
 ゲーム理論,代数幾何学,微分幾何学,偏微分方程式.彼の研究には市場経済学,進化生物学,計算理論,人工知能などへの応用がある.ノーベル経済学賞受賞(1994).映画『ビューティフル・マインド』のモデル.統合失調症で入退院を繰り返すが(1959-1970),1980年代後半に回復. 
 ナッシュ均衡,ナッシュ埋め込み定理(どんな抽象リーマン多様体もユークリッド空間のある部分多様体に等長埋込みされる). [フ27]  トップ

ナポレオン(Napoleon I, Bonaparte, 1769.8.15-1821.5.5.)
 コルシカ島に生まれ,セント・ヘレナ島に死す.
 1800年第1コンスル,1804年フランス皇帝.ライプニッツルイ14世に提案したフランスのエジブト征服を実行.
 幾何にナポレオンの定理がある.[解人], [パ11, 人], [伝1,2,3,4,5], [直,序], [シ4,附]  トップ


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ニーウェンティイト、ベルナルト(Bernard Nieuwentijt, 1654-1718).
 オランダの医者・幾何学者。微積分法に対する批判者. [解II.1] トップ

ニーヴン(Ivan Morton Niven, 1915.10.25-1999.5.9.)
 カナダ,バンクーバーに生まれ,アメリカ,オレゴン州ユージーンに死す.
 シカゴ大学からディクソンの指導で「ウェアリングの問題(A Waring Problem)」によりPh.D.取得(1938).
 オレゴン州立大学教授.『アメリカ数学月報』の編集.
 加法的整数論.
 ニーヴン数(各桁の数の和で割り切れる数=ハーシャッド数),ニーヴン定数,ニーヴンの定理(sinθ (0≦θ≦90 )が有理数になるのはθ=0, 30, 90の時だけ).
 H.S.ツッカーマンとの共著『数論入門,第3版』(An Introduction to the Theory of Numbers, 1972:1991年版はH.モンゴメリとも共著)がある. [名序, 2, 文], [珠説3.10], [天6] トップ

ニコマコス,ゲラサの(Nicomachus of Gerasa, 60年頃-120年頃).
 ローマ帝国,シリア属州,ゲラサ(パレスティナ)の生まれ.
 その『算術入門』は初めて算術を幾何とは独立の教科として著したもの. 以降1000年以上にも亘って,算術の標準的な教科書となる。ギリシャ数字でなく,アラビア数字を使っている.  [名2], [珠説3.9] トップ

ニコメデス(Nicomedes, 紀元前300年頃-240年頃).
 ギリシャで生まれる。
 角の三等分問題と倍積問題を解くために、コンコイドを発見。ヒッピアスの発見した円積曲線(名前はライプニッツが付けた)で円積問題を解く。
 ニコメデスのコンコイド  [解II.1.1], [直6] トップ  

ニモ(Alexander Nimmo, 1783--1832.1.20).
 スコットランド,ファイフシャーで生まれ,アイルランド,ダブリンで死す.
 セント・アンドリュース大学に入学,エジンバラ大学卒業.土木技師として,橋,道路,鉄道建設に従事.さまざまな雑誌に科学記事を執筆.W.ハミルトンの友人.    [列] トップ

ニュートン、アイザック(Isaac Newton, 1642.12.25-1727.3.20(ユリウス暦)).
 イギリス、リンカーンシャー、ウールスソープに生まれ、ロンドンに死す。
 ガリレイの死んだ年に生まれる。生まれる前に父が死に、母は再婚し、祖母に育てられる。グランサムのグラマースクールでの評価は「怠け者で、注意力散漫」というものだった。義父が死に農夫にしようと呼び戻したアイザックに才能を見つけた叔父が、その母校のケンブリッジ・トリニティカレッジに入学させる(1661.6)。2年まではアリストテレス哲学に拘束されたが、3年次からは自由ができ、デカルト、ガッセンディ、ボイルヴィエートウォリスを読み、ついにバローに出会うことによって才能が開花する。 1665年の夏,ペストの大流行で大学が閉鎖、2年弱故郷で研究にいそしむ(驚異の年)。
 ケンブリッジ大学2代目ルーカス教授(1669-1701)、国会議員(1689-1705)、造幣局監督官(1696)長官(1699)、王立協会会員(1672)会長(1703-死)。数学以外にも『光学』(1704)、反射望遠鏡(1668)。
 「巨人たちの肩に乗っているだけ」という謙虚さとフックライプニッツとの論争で見せる傲慢さと! 人というものは...  [解序, I.1-5, II.1-2, 4, 6, III.2-3, 7], [パ序, 1-13, 15-19, 22, 24-31, 附1-2, ノート], [名2-3], [代12], [ブ50], [直7], [フ1,10,29,30,序] トップ

H.A.ニュートン(Hubert Anson Newton, 1830.3.15--1896)  アメリカの天文学者で数学者.イェール大学で,M.シャールのもとで修士(1850).すぐに同大学で教鞭.流星に関する研究はあるも,アメリカ数学界の基礎を形成.弟子にE.H.ムーア [列] トップ


ニューボーン(Monroe M. Newborn).
 グラフ理論.  [天14] トップ

ニューマン(Maxwell Herman Alexander Newman, 1897.2.7--1984.2.22).
 イギリス,ロンドン,チェルシーに生まれ,コンバートン(ケンブリッジの近く)に死す.
 ケンブリッジのセント・ジョンズ・カレッジ入学(1908).トライポスの1等を取ったあと第1次大戦勃発で学業中断し,軍関係の仕事をする.この頃名前をNeumannからNewmanに変える.戦争が済んで1919年にカレッジに戻り.1921年に卒業し,1923年にフェローになる.
 1922-23年にウィーン大学に行き,ライデマイスターから強い影響を受ける.1927年にケンブリッジ大学の講師に.1928-9年と1937-8年にプリンストンに行きJ.W.アレクサンダーと共同研究.ケンブリッジでは数学の基礎についての講義をし,それがチューリングの有名な論文「計算可能な数と,決定疑問文問題への応用(On Computable Numbers, with an application to the Entscheidungsproblem)」に刺激を与えた.
 第2次大戦が始まり,暗号に関する仕事に従事する(1942年).戦後,モーデルの後任としてマンチェスター大学の数学のフィールデン教授職に.3年後チューリングを上級講師に任命.   位相幾何学者.コンピュータによるメルセンヌ素数探索を最初に行った.
 数学以外にも多彩な才能.素晴らしいピアニストでチェスも強かった.  [伝] トップ

ニリー(A. Nilli).
 ノガ・アロンの仮名で,解説記事や独創性が低いと思ったときに用いる.名前は娘から借用.娘は現在歴史を学ぶ学生とのこと.『天書の証明』第14章に掲載された写真はアロンが該当する論文を書いた頃の娘の写真だということである.  [天14] トップ
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ヌグ(Ting Fai Ng).
 プリンストン大学から,P.A.グリフィスとR.M.ゴレスキの指導で,「代数多様体の幾何(Geometry of Algebraic Varieties)」によりPh.D.(2004).
ペンシルヴァニア大学.等周問題.  [フ文] トップ
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ネイピア、ジョン(John Napier, 1550-1617.4.4).
 スコットランド、エディンバラ、マーキストン城に生まれ、同地に死す。
 マーキストン男爵。 聖アンドリューズ大学中退後ヨーロッパを遍歴。帰郷後(1571)、軍務につきながら研究。対数、球面三角法。対数を使った計算機の他発明も多い。 [解I.3, 文] トップ

ネヴィル(Eric Harold Neville, 1889--1961).
ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ卒で,1909年の数学トライポスの2席のラングラー.G.H.ハーディの依頼で,マドラスにいたラマヌジャンを,ケンブリッジにくるように説得に行く.  [伝] トップ

ネーター,エミー(Amalie Emmy Noether, 1882.3.23-1935.4.14.)
 ドイツ,バヴァリア,エアランゲンに生まれ,アメリカ,ペンシルヴァニア,ブリン・モーBryn Mawrに死す.
 父はエアランゲン大学数学教授マックス・ネーター(19世紀代数幾何の指導者の一人).1903-04年にはゲッティンゲンで,ヒルベルトF.クラインミンコフスキーの講義を聞き,1904年にエアランゲンに戻りゴルダンの下で学位(1907). ヒルベルトの基底定理(1888)に対して,あくまでゴルダンは不変式を構成する立場をとり,ネーターも331個の共変形式をリストするという仕事であった.が,次第にヒルベルトの抽象的なアプローチに変わっていく.
 女性であることとユダヤ人であることから,公的な職につくことがむずかしく,各地を点々とする.1915年にヒルベルトとクラインがゲッティンゲンに招き,ヒルベルトの名の下にネーターが講義をするという形態をとることもあった. 1919年に不変式論からイデアル論に転換し,抽象代数学の根幹を作り上げた.準素イデアルの導入. 1924年ゲッティンゲンにきたファン・デル・ヴェルデンはアムステルダムに戻ってネーターの仕事を中心に『現代代数学』を書き,抽象代数学が広まる.
 1927年からはH.ハッセR.ブラウワーとともに非可換環論を研究.力学系の保存法則に関するネーターの定理.
 1933年にナチの迫害にあい,アメリカに亡命し,ブリン・モー女子大の客員教授となる.
 ワイル
「代数学に対する彼女の意義は論文だけから推し量れない.彼女はひとを鼓舞する大きな力を持っていて,彼女の示唆は弟子や共同研究者の仕事の中で初めて形をとるのである.」
と書いている.  [代6, 9, 11-12, 18, コ] トップ

ネルセット(Syvert P. N\orsett, 1944-).
 ノルウェーに生まれる。 オスロ大学で修士(1969),論文は「硬い系の数値解(The numerical solution of stiff systems)」. スコットランドのダンディー大学でジャック・ランベルトの指導で学「常微分方程式の数値解(Numerical solution of ordinary differential equations)」によりPh.D.(1976).
 ノルウェー、トロンハイムのノルウェイ自然科学工学大学(Norges teknisk-naturvitenskapelige universitet)数理科学教室数値解析の助教授(1970.8.1-1986.8.1),教授(1986.8.1)。
 常微分方程式の数値解,近似理論,コンピュータ・サイエンス. [解II.9, 文] トップ
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ノイゲバウワー(Otto Eduard Neugebauer, 1899.5.26--1990.2.19).
 オーストリア,インスブルックに生まれ,アメリカ,ニュージャージー州プリンストンに死す.
 高校で数学が好きだったのだが,試験を受けるのを避けるために1917年にオーストリア軍に入隊し,1818年に戦争が終ったときイタリア軍の捕虜となる.捕虜収容所ではL.ヴィットゲンシュタインと一緒だった.
 解放後グラーツ大学の電気工学科に入学(1919),ミュンヘン大学に移る(1921).ゲッティンゲン大学(1922-24)では,クーラントランダウE.ネーターのもとで数学を学ぶ. H.ボーア,P.S.アレクサンドロフらと親しくなる.
 コペンハーゲン大学(1922-24)ではボーアと概周期関数を共同研究, エジプト数学史に関心が移る. 学位論文はエジプトの単位分数に関すること(指導はクーラントヒルベルトで,「エジプトの分数計算の基礎(Die Grundlagen der \"agyptischen Bruchrechnung)」による(1926)).リンドパピルスの表の数学的検討をしたもの.これにより教授資格を得,私講師となる.
 1927年からゲッティンゲンで古代数学史の講義をする.その時の弟子にファン・デル・ヴェルデン.1927年にバビロニア数学に関する最初の論文を書き,60進法の起源を論じる.
 1929年に数理科学の歴史に関する雑誌Quellen und Studien zur Geschichte der Mathematik, Astronomie und Physik (QS)を,シュプリンガー社から創刊.この中でエジプトの算術と幾何の計算技術に関する論文を書き続ける.モスクワパピルスは幾何に関しては重要で,1928年にはレニングラードにモスクワパピルスの研究に訪問.
 シュプリンガー出版社を説得して,レヴュー誌Zentralblatt f\”ur Matematik und ihre Grenzgebieteを創刊(1931).
 1933年にヒットラーが首相になり,新政府への忠誠を求められ,拒否したため職を離れる. ボーアに招かれ,コペンハーゲン大学教授に(1934.1). 1936年にディオファントス方程式を使って,テキストの日付を特定し解析をする方法に関する論文.1935-37年間に,『数学的楔形文字テキスト(Mathematische Keilschrift-Texte (MKT))』の集大成を発表.
 1939年にZentralblattがナチに接収され,アメリカのブラウン大学数学科に移動し,1940年にMathematical Reviewsを創刊. アメリカ市民権を得,残りの経歴のほとんどはブラウン大学で. ブラウン大学に数学史の講座ができ初代教授に(1947).1950年からプリンストンの高等研究所所員になったが,ブラウン定年後の1988年には研究所に移る.
 1945年の『楔形文字の数学テキスト(Mathematical Cuneiform Texts)』(アッシリア学者のAbraham Sachsと共著)はバビロニア数学に関する英語での標準になっている.
 ギリシャ・ローマ数学にも関心を持ち,バビロニア天文学の影響を見て取る. 
 『古代の精密科学(The Exact Sciences in Antiquity)』(1957, 日本語訳(1984)あり),『楔形文字の天文学テキスト(Astronomical Cuneiform Texts)』(1956), 『アル・フワーリズミの天文表(The Astronomical Tables of al-Khwarizmi)』(1962), 『エチオピアの天文学と計算(Ethiopic Astronomy and Computus)』(1979), 『古代の数学的天文学の歴史(A History of Ancient Mathematical Astronomy)』(1975)など.   [伝8,10],[モ歴] トップ

ノイマン,カール(Carl Gottfried Neumann, 1832.5.7-1925.3.27).
 ドイツ,ケーニヒスベルク(現在ロシア,カリーニングラード)に生まれ,ドイツ,ライプツィヒに死す.  父はケーニヒスベルク大学物理学教授のフランツ・ノイマンで,母はベッセルの義妹.  ケーニヒスベルク大学で学び,教師のヘッセと親しくなり,1855年に学位取得.ハビリタシオンはハレ大学に提出し,1858年に資格取得.ハレ大学私講師(1858),員外教授(1863),バーゼル大学教授(1863),チュ−ビンゲン大学教授(1865-68),ライプツィヒ大学教授(1868-1911).就任演説に「力学のガリレイニュートン理論の原理について」.
 数理物理学,ポテンシャル論,電気力学,偏微分方程式,リーマン面.1860年代にディリクレの原理と対数ポテンシャル(彼の命名)を研究した際の逐次近似法を使い,1890年にE.ピカールが偏微分方程式の解の存在証明をする. 偏微分方程式の境界値問題の一種であるノイマン問題は彼の名にちなむもの.
 マテマティッシュ・アナレン創刊時の編集委員としての仕事も重要.  [伝] トップ

ノイマン,ネリー(Nelly Neumann).
 クーラントのブレスラウ大学時代からの知人で,既にその大学で博士となり,ギムナジウムの教師になるための試験用の論文を書いていた.クーラントの最初の妻.1912年に結婚,1916年2月16日に離婚した後,エッセンで数学の教師をしていたが,第2次大戦中にアウシュヴィッツで亡くなっている.  [伝] トップ

ノーベル,アルフレッド(Alfred Nobel, 1833.10.21-1896.12.10).
 スウェーデン,ストックホルムに生まれ,イタリア,サンレモに死す. なおスウェーデン語ではノーベルのアクセントはベに置き、ノベールとなる。
 知人の化学者アスカニオ・ソブレロ (Ascanio Sobrero)が発明した爆薬のニトログリセリンを、初めて実用化することに成功。さらにこれを改良し、安全に使えるようにしたダイナマイトを発明した。
 工事現場での岩盤の破壊など、作業の効率化用として作ったが、戦争で人を殺す爆弾として使われていることを悲しみ、遺言に、ダイナマイトの発明や油田開発で得た莫大な財産を運用して、科学などに貢献した人に賞金を与えるよう言い残したものが、ノーベル賞である。
 1896年12月7日、サンレモで脳溢血で倒れるが,その1時間前までは普通に生活し、知人に手紙を書いていた。倒れた直後に意味不明の言葉を叫び、かろうじて「電報」という単語だけが聞き取れたという。これが最後の言葉となった。急ぎ親類が呼び寄せられるが、3日後に死亡した。生涯独身であり、子供はいなかった。駆けつけた親類は間に合わず、死の床にも召使がいただけだったという。  [伝] トップ

ノタリ(Vittoria Notari Cuzzer, 1894.4.17-1976.7.18). イタリア,レッジョ・エミリアに生まれ,ローマに死す.
 数学史.
 師範学校を出て高校教師に.ボローニヤ大学の大学院で学ぶ.F.エンリケスによって始められた数学教育改革に協力. [解I.1, 文] トップ


  
  
  
  
  

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